真・役に立たない駄話

日本初の「テレビドラマ」の題名が、急きょ変えられてしまった切ない理由

 以前、ブラウン管開発の話で1940年に東京で開催されるはずのオリンピックが中止になったことはお伝えしたが、テレビの研究自体は黙々と続けられていた。アイコノスコープカメラを用いて技術者たちの姿をブラウン管上に映し出す実験放送にも成功を収めていた。

 じつは、テレビドラマもすでにこの時代に製作していた。1940年に実験放送した日本初のテレビドラマは『夕餉前(ゆうげまえ)』という作品。脚本・伊馬鵜平(いまうへい 後の伊馬春部 戦前から戦後にかけてユーモア小説やラジオドラマなどの分野で活躍)、出演は原泉子(後の原泉)、野々村潔(女優 岩下志麻の父)、関志保子(宇野重吉の妻)の3人。上映時間は15分弱というごく短い作品だった。

 4月13日と14日の2日間にわたり、内幸町の放送会館およびNHK局舎に常設されていたテレビ観覧所に試験電波が届けられ、みごとテレビドラマの実験放送は成功。1週間後には上野産業会館で行われた技術博覧会でも放送され、訪れた観客から大いなる絶賛を浴びたという。

 ただし、初のテレビドラマ成功の裏には、製作者たちの見えない苦労も多々あったらしい。制作にかけることができる資金が乏しかったのもそのひとつ。照明や舞台装置にかける金にも厳しい制限があったことを物語るエピソードがある。

 実はこのドラマは当初「夕餉時」というタイトルで、ひたむきに生きる母子家庭の日常を、夕食シーンを交えつつ描こうとしたものだった。脚本に書かれた設定は「久しぶりのごちそう」ということで母子がつくったスキヤキを食べるシーンが準備されていた。しかし、小道具のスキヤキを準備する金がない。そこで苦肉の策として、急遽タイトルを「夕餉前」に変更。脚本そのものを夕食前の母子の会話に変更してしまったわけだ。

 何とも切ない話だが、こんなに苦労を重ねて制作したドラマも、数々の実験放送成功も、すべて戦争によってゼロになってしまった。

 日本人がテレビドラマをはじめ、夢のようなブラウン管映像に酔いしれるのは、1953年のNHK本放送開始まで待たねばならなかった。

ブラウン管に世界で初めて映ったものは何?

 近年は、壁に貼りつけられるほどの軽量・薄型化をはかった液晶画面や、100インチを超える大型化を可能にした液晶画面、3D映像が見られるテレビまで、出てきたが、ほんの10数年前までは、ブラウン管画面が主流だった。

 いち早く開発に着手し、世界ではじめてブラウン管の蛍光膜状に映像を映し出すことに成功したのは、何を隠そう日本人技術者・高柳健次郎、その人だった。

 それは1926年の暮れも押し迫った12月25日のこと。東京・世田谷のNHK研究所から内幸町の放送会館の間に初のテレビ映像電波が放たれた。そして、次の瞬間、ブラウン管に世界初となる記念すべき映像がくっきりと映し出された。現れたのは、カタカナの「イ」の字。

 「イロハの最初の1文字だけ?たったそれだけ?」と思うかもしれないが、これは当時、世界を驚愕させる出来事だった。その後、1930年NHKは技術研究所を設立。高柳ら技術者を招き、本格的なテレビ実用化に向けた研究開発に乗り出した。

 日本は来る1940年に『オリンピック東京大会』開催を予定していた。そこで世界初のテレビ中継を目指していた。すぐれた科学技術力を世界にアピールすることで、国威発揚をはかるのが狙いだったのかもしれない。

 だが狙いはもろくも崩れることになる。1941年の太平洋戦争勃発である。当然、その以前にオリンピック中止も決定。そして敗戦・・・占領下の日本はテレビ開発どころではなくなってしまう。ドイツ、イギリス、ソ連、アメリカなどの各国が続々とテレビ定時放送を開始する中で、ブラウン管受信一番乗りの日本はすっかり後れを取ることを余儀なくされてしまった。

 しかし、ブラウン管の映像受信に成功した、高柳健次郎は、のちに技術者、関係者たちの間で日本の「テレビの父」として大いに称賛されることになる。幼いころフランスの雑誌にあった「テレビジョン未来図」という空想マンガを目にして以来、一心にテレビ放送実現を目指した高柳健次郎の偉業は、今なお語りつがれている。

朝起きたら「よく眠った」言ってみよう

 脳が元気であるためには、毎日の習慣が大切。その手始めは、朝の迎え方にある。

 誰でも、一日のスタートは“よい目覚め”で迎えたいと思う。しかし、大半の人は、この“よい目覚め”を得ることが難しい。現代人の多くは、ほとんどが寝不足気味だろう。毎朝、目覚まし時計に叩き起こされて、イヤイヤ起きる、という人が多いはずだ。

 そんな人は、ちょっと自分に暗示をかけてみることをお勧めする。この暗示をかけることで気分良く起きだすことができるだろう。

 じっさいにそれほど寝ていなくても、「時間は短かったけど、今日の眠りは深かった」と言い聞かせてみよう。すると、不思議なことに、本当によく眠れた気分になってくる。

 バカバカしいというのは簡単だが、人間は口にした言葉に、結構左右されるもの。たとえばお風呂にザブーンと使ったときに「あー気持ちいい」とか「極楽極楽」というと、黙ってはいるより、ずっと気持ち良くなってくる気がする。これも一種の自己暗示と言えるだろう。

 なぜ、人は自己暗示にかかりやすいかといえば、これには脳の働きが関係している。

 脳には、人が発した言葉をそのまま実行しようとする習性がある。だから前向きな言葉を使う人は、本当にうまく行くことが多い。いい言葉は、自分の脳に話しかけるようなつもりで、本気でいうと、より効果がある。

 また「朝一番に」いい言葉を使うことも大切だ。脳は、朝に発した「よい言葉」に従うように動きだしてくれるから、「今日は一日中気分よくすごせそうだ」といえば、脳は本当にそんな一日になるように働いてくれる。

横断歩道はなんで“しましま”なのか?

 しかし、赤や黄色など派手な色を使うと、目がちらついて、かえって運転の妨げになってしまう。

 そんなわけで、目立つが、目障りにならないものと考え出されたのが、白と黒を貴重にした現在の横断歩道の原型になるものだった。

 最初は、石灰水を使って白い2本線を引いたり、道路に石材やアルミニウムを埋め込んで、それを横断歩道としていた。横2列に互い違いに塗った横断歩道が登場したのは、1957年のことだった。

 1965年になると、横断歩道を作る作業の手間を省くために互い違い塗って、直線1本のはしごタイプの横断歩道が主流になる。

 そして、今ではさらに手間を省略して、はしごタイプの両側の2本線がなくなっている。これだと雨の日でも、盛り上がった塗装面に囲まれた部分に水が溜まらず、見た目もスッキリ、塗装の時間や費用も少なくてすむといったメリットがある。

 ほとんどの人が気づかないうちに、横断歩道も少しずつ変化している。

風邪を引いたときは風呂に入ってはいけないのか?



 今日は趣向を変えて、母と娘の会話形式でお送りします。

 この高校生の娘さん、風邪の治りかけにもかかわらず、お風呂に入っていたところ、母親が脱衣所のドアを開けて大声を出した。

 「あなた、風邪気味なんだから、お風呂なんて、とんでもない」

 「もう、熱は下がったわよ」

 「だめです。せっかく治りかけた風邪が、ぶり返しちゃうじゃないの」

 入浴は、風邪をこじらすばかり・・・日本人は、その教えを何代にもわたって受け継いできた。ところが、17歳の娘は、まったくあわてない。クールなまなざしを母親に投げて、こう言い返した。

 「そんなことを言うのは、日本人だけよ。欧米では、風邪ひきには、むしろ入浴がいいとされているんだから」

 じつは、風邪と入浴に関する知識をすでに取り入れているようだ。

 「そんなこといったって、ここは日本よ」

 娘は、余裕の笑みを浮かべてこう聞き返した。

 「だったら聞くけど、どうして、風邪をひいたら、お風呂に入っちゃいけないの?」

 「そりゃ、湯冷めをするからよ。それに、熱いお風呂は、体を疲れさせるでしょ」

 「お風呂から出たあとに暖かくすれば、湯冷めなんかしないし、ぬるいお風呂に入れば、体力も消耗しないわよ」

 「まあ!ああ言えば、こういう。だったら、お風呂は風邪にいいという根拠は何なの?」

 「お風呂に入れば、悪い汗を流せるし、水蒸気によって乾燥した喉や鼻にうるおいを持たせられるのよ。それに、ぬるめのお風呂に入ると、副交感神経が活発に働いて、心地よい眠りにつくこともできるし。そうするには、半身浴が最適。最近は、日本の医者にも、風邪には、ぬるめの風呂に半身浴がいいという医者が増えてきているのよ」

 この母親が納得するかどうかはさておき、娘の言い分は真実だ。