真・役に立たない駄話

日本初のテレビCMは3秒で放送禁止?

 以前も話したが、社長みずからが広告主を口説きまわって、ようやく開局までこぎつけた日本テレビ放送網。ちなみにCM広告料金は30分番組が15万円、開局当日のスポンサーは6社。スポットスポンサーとして2社が名乗りを上げていた。

 1953年8月28日の放送開始日、正午の時報に合わせ、スポンサーの一社であった精工舎(現 SEIKO)の記念すべき初のテレビCMが22秒オンエア・・・されるはずだった。

 ところが、なんと、映像は3秒足らずで放送中止。技術力の不足か初日の大きな緊張感からか、フィルムを裏返しにして流してしまうという、あってはならないミスが発生した。

 結果、ナレーションの音声は流れず、映像も3秒足らずで消えてしまうという事態に。予定通りなら「腕時計は1秒間に5回。一昼夜には43万2000回も回転しております。1年に1回は分解掃除をいたしましょう」という名コピーのナレーションが茶の間に届けられるはずだった。が、はかなくもそれは空ぶり。日本初のCMが、くしくも日本初の放送トラブルという不幸な結果に終わってしまった。

 同日の午後7時、同じ精工舎の時報コマーシャルが流されたが、当然2回目はミスもなく最初から最後まで映像とナレーションが映し出され、現場スタッフたちもホッと胸をなでおろしたらしい。

 その後、数十年もの長きにわたって放送される認知度の高い長寿CMになるわけだから、何が起こるかわからない。

毎日がお祭り騒ぎだった「街頭テレビ」

 NHKが開局した同じ1953年8月、半年遅れで日本初の民間放送・日本テレビ放送網が開局した。NHKと違って民放は広告収入が必要だ。しかし日本テレビ開局当時の受信契約台数はいまだ3600台前後。そんな人数にしか影響力のない広告に大金を支払うスポンサーは少ないのが現状だった。新聞や雑誌、ラジオのほうが、コマーシャル効果が高いと考えられていた。

 日本テレビは、当時社長だった正力松太郎みずからが人脈を通じてあちこちの企業やメーカーを口説いてまわった。その時の言葉がこうだ。

 「テレビにおける宣伝価値とは家庭の受像機の数うんぬんではない。その映像をどれだけ見るかという、人の数である!」

 この言葉を裏づけるかのように、彼は広告主獲得のための大いなる奇策に出た。それが新橋、浅草、渋谷、品川など人が多数集まる場所に設置した「街頭テレビ」大作戦。小型テレビが主流の時代に、21インチ27インチという二種類の大型テレビを総数220台も準備、50か所以上の場所に設置した。

 狙いはみごとに的中した。開局の翌日8月29日『巨人対阪神』のナイター中継をきっかけに、信じられないほどの多数の人々が街頭テレビに群がるようになった。

 それは社会現象にまで発展する勢いになる。同年10月27日の『白井義男VSテリー・アレンのプロボクシング世界フライ級タイトルマッチ』中継は道路にあふれ出る人の波で路面電車が止まるというありさまに。翌年1954年2月19日の『力道山・木村雅彦VSシャープ兄弟のタッグマッチ国際試合』のプロレス中継にいたっては、新橋周辺だけで約2万人もの人が押し寄せたというから、まさに「スゴイ!」のひと言。交通はストップ、整備する警察官も太刀打ちできないほどの大騒動。いまとなっては、ワールドカップの日本戦試合直後のばか騒ぎ以上のものが街頭テレビを見るためにおこっていたといえるだろうか。

 戦争に負けた屈辱を胸の奥に抱き続けた日本人にとって、巨大なアメリカ人レスラーを空手チョップで次から次へとなぎ倒す力道山は、まさにブラウン管が生んだヒーローだった。「プロレス中継を客寄せの目玉に」とテレビ購入にふみきった喫茶店など飲食店も急増。また、プロレスを見たいがためにテレビを購入した個人も多数いたといわれている。テレビという新しいメディアを広く一般に浸透させたこともふくめ、テレビ受像機を広く一般に普及させることにも「街頭テレビ」が大きく貢献したといっていいだろう。

テレビ本放送開始時の1日の放送時間は、たったの○時間?

 たとえ深夜だろうが早朝だろうが、電源をオンにすればなにかしらの映像が飛び込んでくる現代。地上波だけでなくBSやCSなどの多媒体も含めれば、ほぼ連日24時間いつでも、数々の楽しい番組を見ることができる。

 だが、放送開始当初は現在のように四六時中、番組を楽しめたわけではない。テレビ放送の時間は平日で計4時間。お昼12時から1時30分までの1時間半、この後休憩をはさんで、夕方6時30分から再開され、9時までの2時間半が放送となった。
 休日・日曜にいたっては昼が30分短い1時まで。たった3時間半の放送だった。
 「清水の舞台から飛び降りる気持ちで高い金を払って買ったテレビなのに。これじゃ詐欺だ」と現代人なら思うかもしれないが当時の人々はどうやら違ったようだ。

 わずかの時間とはいえ、四角い箱から毎日生み出される「動く映像」に一喜一憂、ワクワクした気持ちでブラウン管の前に正座したに違いない。

 やがて数カ月もたつと民放テレビが続々と産声を上げ、番組も次々と多様化していく。そのころにはようやく、高価だったテレビ受像機の本当の価値が実感できるようになったことだろう。

最初にテレビ放送が行なわれた時、見られた人数は?

 ついに、日本中が待ちに待った日がやってきた。1953年2月1日午後2時、ブラウン管に「NHK東京テレビジョン開局」の文字が映し出され、アナウンサーの「JOAK・TV こちらはNHK東京テレビジョンであります」の第一声が流れた。日本で最初となるテレビ本放送開始の瞬間だった。
 いまや一家に1台どころか、1人1台以上あるといえるほどに普及したテレビ。「ワンセグ」なる新技術の登場で、携帯電話やスマートフォンを使っていつでもどこでも番組が楽しめる時代だ。普通になんでもない存在となったテレビだが、放送開始の頃は違った。テレビ受像機そのものがとても貴重な存在。それに開局当時の放送エリアはまだ関東地区の一都六県だけ。東京近郊以外の地方へは電波が届けられていなかった。
 NHK資料によると、本放送開始時点でテレビ受信契約者は1000人にも満たない。わずか866人だけとなっている。一台のテレビに幾人もの人々が群がっただろうことは想像できるが、それにしても開局瞬間の映像を目にすることができたのは、ごくごく限られた人だけだったことは確かだろう。

 少数の人しか受像機をもてなかった最大の理由は値段が高額だったこと。国内量産体制の整備が遅れ、大半はアメリカ製受像機に頼った。その値段は17インチで25万円前後。数少ない国産品も24万円と差がない値段。一回り小さい14インチで17~18万円。量販店でも数万で買える現代と比べれば、雲泥の差といえるほどの高級品だ。

 大卒初任給が8000円前後、平均的なサラリーマンの手取りが15000円、中堅クラスで30000円ほど、これが当時の月給だった。テレビ1台買うのに年収すべてを出す時代。それも白黒テレビだ。受信契約者数が数百人だったこともうなずけるだろう

 ちなみに、当時の契約受信料は、月額200円だったそうだ・・・

テレビ中継されていたのに見られなかった第3回紅白歌合戦

 待ち望んだ日本のテレビ開発がようやく再開されるのは、戦後直後の1946年からのこと。1950年には東京テレビジョン実験局が開局、11月10日から週2回の実験放送をスタートさせた。番組は落語などの演芸、音楽、ドラマなど。また、実験放送の一環として、現代も続くNHK人気恒例番組のひとつ、『紅白歌合戦』がテレビ放送開始を前にして、すでにテレビ中継されていた。

 現在の『紅白歌合戦』といえばNHK年末恒例の高視聴率番組で、どの歌手の時が最高視聴率を記録したなどの情報が年始のスポーツ紙に取り上げられたり、他局の視聴率が何%で今年は肉薄したなどと話題に上ったりもするが、もともと1951年1月3日、ラジオのお正月番組としてはじまったものだった。人気歌手を一堂に集めた歌の祭典が、正月の茶の間にぴったりとの高評価を得たことでレギュラー化が決まった。

 そして、1953年1月2日、恒例となった『第3回紅白歌合戦』のラジオ放送が行われた。このとき、テレビカメラも会場に入り、実験放送として初のテレビ・オンエアとなった。ただし一般の人たちは、会場に行って見る以外は、ラジオからの音声のみ。華やかな衣装に身を包んだ歌手たちの歌う姿をブラウン管を通してみることができたのは、ほんの少数のテレビ関係者と、すでに貴重なテレビ受信機を手に入れていた人のみ。

 ちなみに、その1ヶ月後にテレビ本放送が開始されるわけだが、同じ年の『第4回紅白歌合戦』からテレビ中継が本格的に開始されることになり、12月31日大晦日の目玉番組に変更された。1953年は第3回と第4回の2回の『紅白歌合戦』が行われたことになる。