真・役に立たない駄話

日本初の「ワイドショー番組」で視聴率戦争が

 日本テレビの早朝放送を受け、各局も早朝の時間帯にさまざまな企画を模索することになる。ついに東京でのオリンピックが実現の年、他局を大いに震撼させる企画が登場した。1959年2月に日本教育テレビとして開局したNET(現・テレビ朝日)が開局から5年目の1964年4月1日から放送を開始した、日本初の生ワイドショー『木島則夫モーニングショー』である。

 月曜から金曜まで帯で毎朝1時間の生放送は、リスクも高く無謀な試みとも思われた。ところが、視聴者の目線に合わせた情報や話題がリアルタイムに次々とくり出されるこの番組は、主婦層を中心に絶大なる支持を集め、大成功を収めた。

 ニュースをメインに「今朝の話題」「時の人」「プレゼントコーナー」など視聴者の好奇心をくすぐる企画を一時間の中に凝縮。木島則夫アナウンサーをメインに、サブに栗原玲児アナウンサーと井上加寿子アナウンサー。おのおのが中年世代、若者世代、主婦層を代表するイメージで、自分自身の言葉を用いて番組を盛り上げていった。アナウンサーに対して「泣きの木島」などとキャッチフレーズがつけられるようになったのも、視聴者から好感触を持たれた証拠だろう。

 この大成功に他局も触発されないわけはない。1年後にはNHKが『スタジオ102』、フジテレビ(NETから1ヶ月遅れた1959年3月に開局)が『奥様スタジオ・小川宏ショー』、TBSが『おはよう700』、日本テレビが『ズームイン!!朝!』と各局が朝の生ワイドショー編成に力を入れるようになっていく。今も続く熾烈なワイドショーの視聴率競争は、まさにこの年から始まったと言えるだろう。

朝のニュース、初の試みが視聴者に大ウケしたことがあった

 テレビ初期のころは、各社とも昼の間と夜間の数時間ずつの放送だったことは以前にも書いたが、そんな時代に、はじめて早朝の時間帯にテレビ放送を開始したテレビ局があった。開局3周年記念をうたい文句に、1956年8月19日、早朝6時30分〜7時50分まで80分間の番組を開始した日本テレビだった。

 早朝番組は、テレビ体操や今日の天気をふくむ、主にニュースを中心とした5分から10分の小刻み編成。画面隅に一分刻みで時間を表示するという視聴者への細やかな気遣いもあった。これも日本初の試みだった。いまなお続くありがたいシステムである時間表示は、当時もすでに出勤、通学で気ぜわしい朝の時計がわりとして、視聴者からの高い支持を得たそうだ。

 編成のなかでもとくに存在感が大きかったのが、『NTV朝のニュース』。このニュースで、はじめてアナウンサーが画面に登場するシステムが誕生した。以前はニュースといえば取材撮影したフィルム映像を流し、それにかぶせて音声だけのアナウンスが入る形式が主流だった。しかし、日本テレビは直接アナウンサーがブラウン管に顔を出し、視聴者に語りかけるようにニュース内容を読み上げた。いまでは当たり前のことだが、当時の視聴者には、これが実に新鮮に映ったようだ。

 そして『NTV朝のニュース』にはもうひとつ、現在まで受け継がれる特色があった。それが日本初の横書きテロップ(文字情報)の採用だ。以前のテレビニュースのテロップは、映画館で上映されるニュース映画にならってタテ書きの文字情報が主流。日本人=タテ書き文化が映像でも活かされていた。

 ところが、このニュースで用いられたヨコ書きは、テレビ映像にじつにマッチした。アナウンサーみずからが画面に登場し、文字情報がヨコ書き。現在とほぼ同じニュース・スタイルが早くもこの時代に確立したわけだ。これをきっかけに他局も、早朝への進出を模索するとともに、ニュース番組の充実、変革をはかるようになる。

 ちなみに日本テレビは、これらの早朝番組およびニュース・スタイルのアイデアを、この4年前に放送を開始した、アメリカ・NBCのニュースショー『TODAY』から得たと伝えられている。

ロケ地のセットを実在と勘違いした視聴者

 日本初の、連続ドラマ『日真名氏飛び出す』について以前お話したが、このドラマにはもうひとつ「はじめて」がある。レギュラー・スポンサーを獲得した初のテレビ番組であったことだ。以前は、ドラマのスポンサーといえば単発やスポットがせいぜい。連続して番組を提供するにはメーカーにも覚悟と勇気が必要だった。そんな奇特なスポンサーになったのが、製薬メーカーの三共製薬だった。

 メーカーを口説くためTBSがあみだした作戦が、劇中にCMを盛り込むという、当時としては斬新な企画アイデアだった。主人公がドラマのなかで、三共ドラッグストアにひんぱんに出入りし、さりげなくビタミン剤を飲むわけだ。番組の人気とあいまって、この三共ドラッグストアが視聴者から大いに注目を集めた。

 いまでもドラマのロケ地にファンがつめかける現象はあるが、そこにホンモノの役者がいないことはだれもが知ったうえでの行動。ドラマの雰囲気に浸りたいだけだろう。

 ところが、当時は、ドラマと現実の混同もめずらしくなかった。ドラマの設定場所となった銀座にホンモノのドラッグストアがあると勘違い、そこに主人公が来ることもあると思った視聴者たちが大集団となって銀座を探し回るという現象が後を絶たなかったらしい。なかでも、東京以外の地方からわざわざやってきた人たちの落胆ぶりはすごかったようだ。実在しないと知り、ガックリと首を垂れて東京駅を後にする人たちの姿もあったとか・・・

 また、主役の日真名進介役の久松保夫氏にいたっては、「チンピラ達が集まってケンカをしている処をたまたま覗きに行ったら『日真名氏が来た』と彼らは逃げていってしまった。彼らは『日真名氏は強い』と思っていたらしく恐れられていたようだった」と久松自身がインタビューで語っている。

 当時の人たちにとっては、それほどの影響力があったことは間違いないようだ。

ドラマの突然の時間延長でCMがカットになった?

 製作費もない、ビデオ技術もない、こんなテレビ草創期、バラエティーだろうが歌番組だろうが基本はすべて「生放送」だった。ドラマ番組さえ生が当たり前。ちょんまげ、裃姿のお侍が行き交う時代劇に現代人のスタッフが平気で横切ってしまう場面もめずらしいことではなかったらしい。現代なら立派なコントになる、ある意味、見てみたい気もするが、ほかにも時間より早く終わりすぎて、ブラウン管が突然真っ白になるなど、笑えるエピソードが後を絶たなかったという。

 なかでも信じられないエピソードが、ドラマ時間の延長で後番組を押してしまうという話。セリフの長さ、スタジオ装置の都合などの事情が重なって、ドラマのオンエアの時間調整はひじょうに難しかった。キッチリ時間どおりに進行することのほうが稀だったといわれるほどだ。時間オーバーのときはバッサリとストーリーが途切れてしまったり、時間延長されて後番組を押してしまったという。野球やサッカー、スポーツ中継ならまだしも、ドラマが延長で後番組がずれるなんて今ならまず考えられないだろう。

 前番組の延長でその後のCM時間までもカットされることがあったというから、いまじゃ考えられないほどおおらかな時代だ。当時はCMも大半が生。スタジオ隅のテーブルに所品を並べスポンサー専属のCMタレントが商品の解説をする。いまもワイドショーや通販番組でこのスタイルが踏襲されているが、この生CMでとんでもないミスが起こったことがある。

 あるとき、前番組がいつものように時間延長で、急遽CM時間が短くなるという事態が発生した。舞い上がったのがCMのナレーションをするはずだった女性。時間をカットされたおかげで、何度も練習した商品解説が出来ない。取り乱した彼女は「せめて大切な内容を告知しよう」と、短時間に必死で商品解説のボードを書き上げ、それをテーブルにある商品の横においた。「これならナレーション時間が短くても商品のことを紹介できる」と。

 彼女のとった行動そのものは非常によかったし、間違ってもいなかった。しかし、いちばん肝心な商品価格を間違って書いてしまった。本来は30000円という商品を3000円と表記、「ゼロ」がひとつ少なかったのだ。

 放送の翌日、商品に群がる客、客、客・・・あらためてテレビの影響力の大きさを目の当たりにするほどの大騒動だったらしい。とうのスポンサーも多くの人達へのお詫びをふくめ大損害をこうむった。テレビ局側もスポンサーにひれ伏すほどの大失態となってしまった。以降、生CMは徐々に減少、多少の制作費はかかってもCMはフィルムへと姿を変えることになる。

初の「連続ドラマ」が大ヒットした意外なウラ事情

 NHK、日本テレビに遅れること2年、1955年4月1日、第二の民放テレビとしてラジオ東京テレビジョン(現・TBS)が開局。名前のとおり、もとはラジオ専門局だったが、民法初の「ラジオ、テレビ兼営局」として注目の参画を果たした。

 NHKはニュースやバラエティ番組、日本テレビはスポーツ中継と先行2局は2年間の放送を経ておのおの独自の個性を打ち出していた。視聴者からもそれらの個性が認知されはじめた時期だった。後発とはいえ、他の2局に後れを取るわけにはいかない。そこで、TBSが取り入れた独自の個性がテレビドラマだった。

 開局間もない4月9日から始まった『日真名氏飛び出す』は、アクションあり、推理ありのまぎれもなく日本初の連続テレビドラマだった。主役のカメラマン兼素人探偵・日真名進介役に東宝映画で脇役中心に活動していた久松保夫、その助手・泡手大作役に無名役者の高原駿雄を抜擢した。

 TBSがほとんど無名の二人を主役として起用したのには大きな理由があった。まだ広告収入もないニューメディアであるテレビには、ふんだんに使えるだけの製作費もない。高額の出演料を払って有名俳優を起用できるだけの環境も整っていなかった。加えて、テレビのことを「電気紙芝居」と揶揄する映画界の有名俳優陣の抱え込みも行われはじめた時期でもある(翌年には松竹、新東宝、大映、東映、東宝が五社協定を結び、本格的に俳優陣の抱え込みを開始する)。ところが、こんな秘めた裏事情が、TBSに大いなる幸運をもたらすことになった。

 俳優の知名度がなかったことが、逆に新鮮な魅力となって、放送開始早々から視聴者の心を魅了。ドラマはアッという間に茶の間からの絶大なる支持を獲得し、最高で70%の視聴率を獲得。その後1962年7月まで続く注目の人気番組となった。それまではバイプレーヤーだった二人の俳優も、いきなりテレビドラマ発の人気者としてスターへの道を歩むことになる。

 ここに「ドラマのTBS」という大きな個性が誕生した。