真・役に立たない駄話

鎌倉の大仏の重さはどうやって測ったのか?




 与謝野晶子の歌に「鎌倉やみ仏なれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」というのがある。

 この歌は鎌倉の大仏を歌ったもので、晶子は「釈迦牟尼」としているが、あの大仏は釈迦像ではなく、阿弥陀像である。

 まあ、そんなことはいいとして、鎌倉の大仏の大きさについて今日は話してみよう。

 鎌倉の大仏は高さが11.3メートル、重さは121トンである。高さは簡単に測ることができるだろうが、この重さはどうやって測ったのか?

 鎌倉の大仏は中が空洞になっていて、その厚みから計算したのだろうか?そんな方法で計算して出したものなら、推計121トンとなるだろうが、この121トンは推計ではない。正確な重さとして記載されている。

 実は昭和30年代の半ば、大仏の補強工事を行った際、大仏をジャッキで持ち上げてその下に秤を何台も入れて測り、121トンの重さであると分かった。

 ちなみに、奈良の大仏の重さは実測されたことはなく、380トンから450トンの間であろうと推計されている。

外国ドラマの視聴率が50%を超えたベン・ケーシー




 『アイ・ラブ・ルーシー』『名犬ラッシー』など続く一連のアメリカテレビ映画はどれも吹き替えシステムを採用し、おのおの高視聴率をはじき出した。『スーパーマン』同様、子供を中心に大人気を獲得したのが『名犬リンチンチン』(日本テレビ)と『名犬ラッシー』(TBS)の二大愛犬ドラマだった。この二作品の影響で、当時の日本の家庭でもイヌを飼いたがる子供が急増したらしい。しかも二作品共通のコリー犬が子どもたちからダントツの人気だったという。それほどアメリカの作品が日本に与える影響は大きかったといえる。

 各局が競うように外国のテレビ映画作品をオンエアするなかで、ついに50%を超える脅威の高視聴率ドラマが誕生した。それが、1962年5月からTBSでオンエアされた『ベン・ケーシー』だ。

 神経科医ベン・ケーシーが毎回様々な問題に立ち向かい、解決していくヒューマン作品。知性ある甘いマスクのケーシー役ビンセント・エドワーズは、多くの女性たちから圧倒的な支持を得た。比較的子どもたちの人気を集めた他の外国ドラマとは違い、大人たちがくぎづけとなったドラマでもある。

 放送開始の翌年1963年1月には、日本でオンエアされた外国テレビ映画シリーズとしては最高の50.6%という視聴率を記録する。

 以後、『ベン・ケーシー』の圧倒的人気を受け、テレビ朝日が同じ医者モノの『ドクターキルディア』を、NHKが法廷モノの『弁護士プレストン』を放送開始するなど、日本では異色のヒューマンドラマが続けざまにオンエアされた。ところが、皮肉なことに最高視聴率をはじき出した『ベン・ケーシー』以降、外国テレビ映画シリーズでにヒットは、ほとんど影を潜めることになる。

 かわってゴールデンタイムの番組としては台頭しはじめたのは、日本が独自のアイデアで企画した日本オリジナルの番組だった。テレビマンたちが日夜、意欲を燃やして制作し続けたさまざまな番組が実を結ぶ時期に入っていくわけだ。

テレビドラマ『スーパーマン』が行った日本初の試み



 次々とオンエアされるアメリカのテレビ作品。なかでも老若男女、とくに子どもたちからの絶大な支持を集めた作品が、何度もリニューアルされ多数の観客を動員したことでも知られる『スーパーマン』だった。

 外国テレビ映画放送の先陣を切ったTBSが1956年11月から放送を開始。大多数の人が知っている デイリー・プラネット社の新聞記者からスーパーヒーローへと変身するあのスーパーマンの物語だ。

 放送開始と同時に、視聴者からの大いなる反響。子どもたちがマントがわりに風呂敷を首に巻いて、スーパーマンごっこに興じる姿があちこちで見られるほどの社会現象にもなった。

 そして、この『スーパーマン』で日本初の試みが行われることになる。それが、声優による吹き替えシステムだった。それまでは映画同様の字幕だったテレビ映画に、TBSはわかりやすく日本語で物語る方法をとった。このことも幅広い視聴者を獲得できた要因のひとつだろう。

 番組冒頭に流れる「弾よりも速く、力は機関者よりも強く…」という決まり文句はだれもがすぐに覚え、マネをするほどに日本中に浸透した。

 スーパーマン=新聞記者のクラーク・ケントの声を担当したのが大平透(笑うせぇるすまんの喪黒福造、ハクション大魔王の大魔王役で有名)。彼はこの吹き替えがきっかけで一躍有名人の仲間入りとなり、同時に「声優」という職業も広く日本中に浸透していくことになる。いまでは、声優=アニメのイメージが強いが、当時は声優といえば洋画作品の吹き替えが主流。人気の役者の吹き替えを担当した声優は、その人自身も多数のファンを得るほどほど注目されたようだ。

海外のテレビドラマが日本の視聴者に影響を与えた

 テレビの誕生は、多くの国民にとって心ときめく出来事だといえるが、それを面白くないと思っていた業界も当然あった。それは、テレビ誕生まで娯楽の王様として君臨していた映画業界。

 以前にも書いたが、松竹、新東宝、大映、東映、東宝の映画会社5社、後に日活も含めた6社が協定を結んで、映画作品をテレビに提供しないという、いわゆる5社協定を結んだ。これは作品だけでなく、俳優も同様だった。

 勿論、こういった減少は日本が発祥ではなく、アメリカでもその昔に起こっていたが、アメリカのテレビ業界はそんな映画業界の防衛策に屈することなく、テレビ局で次々と独自の制作プロダクションを設立し、テレビ放送用映画を次々と生み出していた。

 米で作られたテレビ放送用の作品、これが開局したばかりの日本のテレビ局にとっては大変ありがたいものになった。当時は1ドル360円の時代。また外貨使用にも制限が加えられていて、テレビ局が制作費として海外取材はもちろん、外国映画の買い付けなども、とてもではないが出来る状態ではなかった。

 一方、テレビ放送用の作品は、アメリカ国内で放映を終えたもので、すでに制作費を十分に回収できたものは、海外に安価で販売されることになる。1話につき、200〜300ドルほどの価格だったようだ。日本のテレビ局が目をつけないわけがない。

 真っ先にアメリカのテレビ用作品を購入し放送開始したのが、「ドラマのTBS」だった。1956年4月から『カウボーイGメン』という西部劇をオンエア。これが日本初となる外国テレビ作品の進出だった。これを皮切りにNHKが『ハイウェイ・パトロール』、日本テレビが『名犬リンチンチン』など、他局も次々とアメリカを中心とした諸外国からテレビ作品を買い付け、放送を開始した。

 かくして、まだ殆どの国民にとっては未知の世界だった、アメリカや諸外国が日本の茶の間のブラウン管から次々と映し出されるようになる。番組は大半が30分の連続モノでテンポ感のある単純な作品が多かった。わかりやすいストーリーと未知の世界への憧れからか、アッという間に、大人、子どもたちをも巻き込んでの人気の企画になっていった。

初の「昼ドラ」がスタート よろめきドラマってなに?

 朝の時間帯に画期的な企画を持ち込んだのが、日本テレビやテレビ朝日なら、以前は「不毛」とされた昼の時間帯に画期的な企画を持ち込んだのが、フジテレビだった。当時、午後過ぎの時間はニュース番組、料理番組といった、いわゆる女性向けの情報・実用番組が主流。これといった目玉となる番組は乏しかった。

 そんな時間帯に、フジテレビは丹羽文雄原作による『日々の背信』(1960年7月〜)という男女のラブシーンを盛り込んだ切ない愛欲ドラマを編成した。午後1時から30分、すこし家事の手も休めのんびりと過ごす時間に、主婦たちの好奇心を刺激する「許されない愛」というテーマのドラマを持ち込んだ。

 オンエアのきっかけは岡田太郎プロデューサー(後の吉永小百合の夫)のほんの軽い企画書だった。ところが、番組はものの見事に大当たり。放送翌月の8月には20%を超える、昼間の時間にはありえなかった高い視聴率を記録した。多少の変動はあるものの、その後も「不倫モノ」「三角関係のもつれ」といった、いかにも主婦たちが飛びつきそうなテーマでドラマを制作。1965年放送の『愛染かつら』にいたっては38%という驚異的な視聴率をはじき出した。

 いまでこそあまりいわないが、開始当初は昼に放送するメロドラマの略で「昼メロ」、あるいはテーマをもじって「よろめきドラマ」などと呼称された。『日々の背信』で好演し、視聴者からも絶賛をあびた池内淳子は「よろめき女優」などというニックネームまでついてしまうほどだったらしい。