始まりに関する雑学集 - 真・役に立たない駄話

テレビドラマ『スーパーマン』が行った日本初の試み



 次々とオンエアされるアメリカのテレビ作品。なかでも老若男女、とくに子どもたちからの絶大な支持を集めた作品が、何度もリニューアルされ多数の観客を動員したことでも知られる『スーパーマン』だった。

 外国テレビ映画放送の先陣を切ったTBSが1956年11月から放送を開始。大多数の人が知っている デイリー・プラネット社の新聞記者からスーパーヒーローへと変身するあのスーパーマンの物語だ。

 放送開始と同時に、視聴者からの大いなる反響。子どもたちがマントがわりに風呂敷を首に巻いて、スーパーマンごっこに興じる姿があちこちで見られるほどの社会現象にもなった。

 そして、この『スーパーマン』で日本初の試みが行われることになる。それが、声優による吹き替えシステムだった。それまでは映画同様の字幕だったテレビ映画に、TBSはわかりやすく日本語で物語る方法をとった。このことも幅広い視聴者を獲得できた要因のひとつだろう。

 番組冒頭に流れる「弾よりも速く、力は機関者よりも強く…」という決まり文句はだれもがすぐに覚え、マネをするほどに日本中に浸透した。

 スーパーマン=新聞記者のクラーク・ケントの声を担当したのが大平透(笑うせぇるすまんの喪黒福造、ハクション大魔王の大魔王役で有名)。彼はこの吹き替えがきっかけで一躍有名人の仲間入りとなり、同時に「声優」という職業も広く日本中に浸透していくことになる。いまでは、声優=アニメのイメージが強いが、当時は声優といえば洋画作品の吹き替えが主流。人気の役者の吹き替えを担当した声優は、その人自身も多数のファンを得るほどほど注目されたようだ。

朝のニュース、初の試みが視聴者に大ウケしたことがあった

 テレビ初期のころは、各社とも昼の間と夜間の数時間ずつの放送だったことは以前にも書いたが、そんな時代に、はじめて早朝の時間帯にテレビ放送を開始したテレビ局があった。開局3周年記念をうたい文句に、1956年8月19日、早朝6時30分〜7時50分まで80分間の番組を開始した日本テレビだった。

 早朝番組は、テレビ体操や今日の天気をふくむ、主にニュースを中心とした5分から10分の小刻み編成。画面隅に一分刻みで時間を表示するという視聴者への細やかな気遣いもあった。これも日本初の試みだった。いまなお続くありがたいシステムである時間表示は、当時もすでに出勤、通学で気ぜわしい朝の時計がわりとして、視聴者からの高い支持を得たそうだ。

 編成のなかでもとくに存在感が大きかったのが、『NTV朝のニュース』。このニュースで、はじめてアナウンサーが画面に登場するシステムが誕生した。以前はニュースといえば取材撮影したフィルム映像を流し、それにかぶせて音声だけのアナウンスが入る形式が主流だった。しかし、日本テレビは直接アナウンサーがブラウン管に顔を出し、視聴者に語りかけるようにニュース内容を読み上げた。いまでは当たり前のことだが、当時の視聴者には、これが実に新鮮に映ったようだ。

 そして『NTV朝のニュース』にはもうひとつ、現在まで受け継がれる特色があった。それが日本初の横書きテロップ(文字情報)の採用だ。以前のテレビニュースのテロップは、映画館で上映されるニュース映画にならってタテ書きの文字情報が主流。日本人=タテ書き文化が映像でも活かされていた。

 ところが、このニュースで用いられたヨコ書きは、テレビ映像にじつにマッチした。アナウンサーみずからが画面に登場し、文字情報がヨコ書き。現在とほぼ同じニュース・スタイルが早くもこの時代に確立したわけだ。これをきっかけに他局も、早朝への進出を模索するとともに、ニュース番組の充実、変革をはかるようになる。

 ちなみに日本テレビは、これらの早朝番組およびニュース・スタイルのアイデアを、この4年前に放送を開始した、アメリカ・NBCのニュースショー『TODAY』から得たと伝えられている。

テレビ本放送開始時の1日の放送時間は、たったの○時間?

 たとえ深夜だろうが早朝だろうが、電源をオンにすればなにかしらの映像が飛び込んでくる現代。地上波だけでなくBSやCSなどの多媒体も含めれば、ほぼ連日24時間いつでも、数々の楽しい番組を見ることができる。

 だが、放送開始当初は現在のように四六時中、番組を楽しめたわけではない。テレビ放送の時間は平日で計4時間。お昼12時から1時30分までの1時間半、この後休憩をはさんで、夕方6時30分から再開され、9時までの2時間半が放送となった。
 休日・日曜にいたっては昼が30分短い1時まで。たった3時間半の放送だった。
 「清水の舞台から飛び降りる気持ちで高い金を払って買ったテレビなのに。これじゃ詐欺だ」と現代人なら思うかもしれないが当時の人々はどうやら違ったようだ。

 わずかの時間とはいえ、四角い箱から毎日生み出される「動く映像」に一喜一憂、ワクワクした気持ちでブラウン管の前に正座したに違いない。

 やがて数カ月もたつと民放テレビが続々と産声を上げ、番組も次々と多様化していく。そのころにはようやく、高価だったテレビ受像機の本当の価値が実感できるようになったことだろう。