毎日がお祭り騒ぎだった「街頭テレビ」 - 真・役に立たない駄話

毎日がお祭り騒ぎだった「街頭テレビ」

 NHKが開局した同じ1953年8月、半年遅れで日本初の民間放送・日本テレビ放送網が開局した。NHKと違って民放は広告収入が必要だ。しかし日本テレビ開局当時の受信契約台数はいまだ3600台前後。そんな人数にしか影響力のない広告に大金を支払うスポンサーは少ないのが現状だった。新聞や雑誌、ラジオのほうが、コマーシャル効果が高いと考えられていた。

 日本テレビは、当時社長だった正力松太郎みずからが人脈を通じてあちこちの企業やメーカーを口説いてまわった。その時の言葉がこうだ。

 「テレビにおける宣伝価値とは家庭の受像機の数うんぬんではない。その映像をどれだけ見るかという、人の数である!」

 この言葉を裏づけるかのように、彼は広告主獲得のための大いなる奇策に出た。それが新橋、浅草、渋谷、品川など人が多数集まる場所に設置した「街頭テレビ」大作戦。小型テレビが主流の時代に、21インチ27インチという二種類の大型テレビを総数220台も準備、50か所以上の場所に設置した。

 狙いはみごとに的中した。開局の翌日8月29日『巨人対阪神』のナイター中継をきっかけに、信じられないほどの多数の人々が街頭テレビに群がるようになった。

 それは社会現象にまで発展する勢いになる。同年10月27日の『白井義男VSテリー・アレンのプロボクシング世界フライ級タイトルマッチ』中継は道路にあふれ出る人の波で路面電車が止まるというありさまに。翌年1954年2月19日の『力道山・木村雅彦VSシャープ兄弟のタッグマッチ国際試合』のプロレス中継にいたっては、新橋周辺だけで約2万人もの人が押し寄せたというから、まさに「スゴイ!」のひと言。交通はストップ、整備する警察官も太刀打ちできないほどの大騒動。いまとなっては、ワールドカップの日本戦試合直後のばか騒ぎ以上のものが街頭テレビを見るためにおこっていたといえるだろうか。

 戦争に負けた屈辱を胸の奥に抱き続けた日本人にとって、巨大なアメリカ人レスラーを空手チョップで次から次へとなぎ倒す力道山は、まさにブラウン管が生んだヒーローだった。「プロレス中継を客寄せの目玉に」とテレビ購入にふみきった喫茶店など飲食店も急増。また、プロレスを見たいがためにテレビを購入した個人も多数いたといわれている。テレビという新しいメディアを広く一般に浸透させたこともふくめ、テレビ受像機を広く一般に普及させることにも「街頭テレビ」が大きく貢献したといっていいだろう。
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